人と人間と社会について(非人道的犯罪を無くす方法)
以前から頭の隅に引っ掛かっていることだが、世間を騒がす非人道的な事件が起こるたびに「人と人間の違い」について考えてしまう。
おかしな言い方だが「人と人間は違う生き物」のような気がしている。
「人」とはまともな教育を受けず勝手気ままに育ち欲望の抑制が出来ず「社会生活適応能力に欠ける人科動物」のことで、外見からは人間と区別がつきにくい。
一方「人間」とは人に最低限必要な教育を施された「社会生活適応能力を備えた人科動物」のことで、「人間」でなければいわゆる「人間社会」は成り立たない。
ではこの「人間社会」とは一体何だろうか?
このブログを読むあなたのような知性の高い人間ばかりではなく、人間になりきれていない人
、又はなり損なった人が雑多に混ざり合ったモノが人間社会を構成している。
この人間になりきれていない「人」が頻繁に非人道的な事件を起こすようになってきた。
現在の国内法では「人」と「人間」は区別されていない。原則として人は人間と見なされ平等の名のもとに公平な法規が当てはめられる。
教育途中の人は未成年者に区分され人間とは異なり緩めの少年法規が当てはめられている。
昨今頻繁に起きる凶悪事件、特に社会の落ちこぼれ、引きこもりの厄介者達が巻き起こす数々の事件を見ていると戦後教育の問題点が色々と浮かび上がってくるように思えて仕方がない。
一つは「道徳心の欠如」である。
これについては誰も異論は無いと思うが、とにかく道徳心のような儒教的な考え方は徹底的な教育によってのみ形成される事なので、現在のように放置された状態では「道徳心の無い人」が増えてくるのは当然の事である。
いま一つは「正しい差別の欠如」である。
現代人の理想とする平等社会にケチを付けるようで申し訳無いが「正しい差別」は絶対に必要な人間社会の安全装置のようなモノなのである。
戦前の村社会には村八分というものが有った。
これは村社会に害を及ぼす恐れの有る伝染病、精神病、乱暴者、異常者等をあぶり出し村から放逐することによって村社会の安寧秩序を保つという重要な役目を果たした大事な仕組みであった。
ところがこの仕組みには行き過ぎた面があり、貧困、屠殺や汚物処理等の忌避すべき職業集団(同和)の構成員にたいして、就職、婚姻等で理不尽な差別を行うなど「不当な差別」も存在した。
これらの「不当な差別と正しい差別を混同」し、あらゆる差別は全て不当だからやめるべきというおかしな運動が起こり差別が一掃されると共に結果として「社会安定の仕組みとしての正しい差別」も失われてしまったのである。
ではどうしたら良いのか?
事の是非や善悪を判断するには定義が必要になってくる。
例えば「人を殺すことはいけない事」であるという当たり前の事は何故いけないのか?という問いに答えていない。行為のみを禁じても、その規準となる定義が不明確では納得できない人が出てくるのは当然だろう。
法律で決まっているから駄目というのは定義ではなく単なる決めごとで、何故そう決めたのか?という問いに対しての説明にはなっていない。
善悪判断の規準となる定義とは「それを守らなければ人間社会が存続出来ない」という事である。
「人を殺すことはいけない事」ではなく、「人間社会の繁栄を脅かすような形で人を殺すことがいけない事」なのである。
従って国家による殺人の死刑制度や、戦争という民族同士の存亡を賭けた戦いで人を殺す行為は必要悪として許される。
人間社会とは普通は国家単位あるいは同一民族又は同一宗教の単位であるが、全地球的気候変動、隕石の衝突や宇宙人の侵略?等という地球的規模で起きる事象については地球単位という事もある。
話を人と人間に戻すが人間社会の営みや繁栄を是とするならば、この定義に反する行為を行うもの、この定義に反するDNAを持ち人間社会の存続に著しい負担のみを与えるだけのものは淘汰の対象となるべきであるという考え方が有ってもおかしくは無い。
事実昔の村社会では文書化された具体的な取り決めが有った訳では無いだろうが、自然発生的に村社会の存続を脅かす恐れの有るものは排除され淘汰されてきた。
その判断は村の長老やムラオサが担っていたのだろう。
現代社会の様々な非人道的犯罪が起きる背景にはこのような安全装置の崩壊に原因が有るということを考えねばならない。
民主主義は正義の名のもとに過去数世紀に渡って世界中で行われてきた壮大な社会実験は様々な軋轢や綻びが生じ危機に瀕しており、次世代をになう新しい社会秩序の構築が必要となってきている。
我々日本人社会も例外では無い。
狭い意味での非人道的犯罪を防止するだけでなく、人間社会の存続に寄与する社会秩序とは何かを引き続き次回以降で考えて行くこととしよう。
おかしな言い方だが「人と人間は違う生き物」のような気がしている。
「人」とはまともな教育を受けず勝手気ままに育ち欲望の抑制が出来ず「社会生活適応能力に欠ける人科動物」のことで、外見からは人間と区別がつきにくい。
一方「人間」とは人に最低限必要な教育を施された「社会生活適応能力を備えた人科動物」のことで、「人間」でなければいわゆる「人間社会」は成り立たない。
ではこの「人間社会」とは一体何だろうか?
このブログを読むあなたのような知性の高い人間ばかりではなく、人間になりきれていない人
、又はなり損なった人が雑多に混ざり合ったモノが人間社会を構成している。
この人間になりきれていない「人」が頻繁に非人道的な事件を起こすようになってきた。
現在の国内法では「人」と「人間」は区別されていない。原則として人は人間と見なされ平等の名のもとに公平な法規が当てはめられる。
教育途中の人は未成年者に区分され人間とは異なり緩めの少年法規が当てはめられている。
昨今頻繁に起きる凶悪事件、特に社会の落ちこぼれ、引きこもりの厄介者達が巻き起こす数々の事件を見ていると戦後教育の問題点が色々と浮かび上がってくるように思えて仕方がない。
一つは「道徳心の欠如」である。
これについては誰も異論は無いと思うが、とにかく道徳心のような儒教的な考え方は徹底的な教育によってのみ形成される事なので、現在のように放置された状態では「道徳心の無い人」が増えてくるのは当然の事である。
いま一つは「正しい差別の欠如」である。
現代人の理想とする平等社会にケチを付けるようで申し訳無いが「正しい差別」は絶対に必要な人間社会の安全装置のようなモノなのである。
戦前の村社会には村八分というものが有った。
これは村社会に害を及ぼす恐れの有る伝染病、精神病、乱暴者、異常者等をあぶり出し村から放逐することによって村社会の安寧秩序を保つという重要な役目を果たした大事な仕組みであった。
ところがこの仕組みには行き過ぎた面があり、貧困、屠殺や汚物処理等の忌避すべき職業集団(同和)の構成員にたいして、就職、婚姻等で理不尽な差別を行うなど「不当な差別」も存在した。
これらの「不当な差別と正しい差別を混同」し、あらゆる差別は全て不当だからやめるべきというおかしな運動が起こり差別が一掃されると共に結果として「社会安定の仕組みとしての正しい差別」も失われてしまったのである。
ではどうしたら良いのか?
事の是非や善悪を判断するには定義が必要になってくる。
例えば「人を殺すことはいけない事」であるという当たり前の事は何故いけないのか?という問いに答えていない。行為のみを禁じても、その規準となる定義が不明確では納得できない人が出てくるのは当然だろう。
法律で決まっているから駄目というのは定義ではなく単なる決めごとで、何故そう決めたのか?という問いに対しての説明にはなっていない。
善悪判断の規準となる定義とは「それを守らなければ人間社会が存続出来ない」という事である。
「人を殺すことはいけない事」ではなく、「人間社会の繁栄を脅かすような形で人を殺すことがいけない事」なのである。
従って国家による殺人の死刑制度や、戦争という民族同士の存亡を賭けた戦いで人を殺す行為は必要悪として許される。
人間社会とは普通は国家単位あるいは同一民族又は同一宗教の単位であるが、全地球的気候変動、隕石の衝突や宇宙人の侵略?等という地球的規模で起きる事象については地球単位という事もある。
話を人と人間に戻すが人間社会の営みや繁栄を是とするならば、この定義に反する行為を行うもの、この定義に反するDNAを持ち人間社会の存続に著しい負担のみを与えるだけのものは淘汰の対象となるべきであるという考え方が有ってもおかしくは無い。
事実昔の村社会では文書化された具体的な取り決めが有った訳では無いだろうが、自然発生的に村社会の存続を脅かす恐れの有るものは排除され淘汰されてきた。
その判断は村の長老やムラオサが担っていたのだろう。
現代社会の様々な非人道的犯罪が起きる背景にはこのような安全装置の崩壊に原因が有るということを考えねばならない。
民主主義は正義の名のもとに過去数世紀に渡って世界中で行われてきた壮大な社会実験は様々な軋轢や綻びが生じ危機に瀕しており、次世代をになう新しい社会秩序の構築が必要となってきている。
我々日本人社会も例外では無い。
狭い意味での非人道的犯罪を防止するだけでなく、人間社会の存続に寄与する社会秩序とは何かを引き続き次回以降で考えて行くこととしよう。
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